1314  7 内津の商家 鵜飼源六さん

<『さいお』春日井市立西尾小学校開校100周年記念ハンドブック>

下街道を、西尾の方から内津峠の方に向かって上っていくと、内々神社の少し手前の右カーブになるところの左側に、白壁の大きな家屋があることに気づきます。2階には、一見うだつのようにも見える立派な屋根をつけた大きな看板が2つ掲げられています。この家が、代々内津村で商家を営んできた鵜飼史郎さんのお宅です。

 鵜飼家当主は、代々源六を名乗り、屋号を「舎」(やまきち)と称しました。江戸時代の前期ごろから内津に住んでいたようです。扱っていた商品は、味噌、しょう油、薬でした。特に薬は「金勢丸<腹痛薬>」「正生丸<解熱薬>」」(どちらも内々神社付近の山の名前からつけたそぅです)が有名で、上の看板(写真)はこの薬の看板だったのです。内津の俳人長谷川三止(善正)さんが医者でもあったことから製薬し、江戸時代の後期に鵜飼家が薬の製造・販売の権利を買い取って販売してきたのです。この他にも「内津茶」という銘柄のお茶も扱っていました。鵜飼家は、江戸の後期から明治にかけて発展し、とても大きな商家になりました。

 明治の初め頃には,地主として多くの土地を近隣の人たちに貸すようになっていたそうです。地元かたの方の話では、源六さんは自分の土地だけで恵那まで行くことができた、とたとえられるほどだったと言います。しかし,この近辺が養蚕の産地に様変わりして、内津の茶の木が桑の木にとって代わられていくと、鵜飼家も内津茶、そして薬の販売をやめて、明治

36年には郵便局になったということです。

 ちなみに,『春日井市史』によると,明治22年に内津村・西尾村・明知村が合併して新しく内津村ができたのですが,そのときの村長さんが鵜飼源六さん(史郎さんの祖父)ということです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   【旧下街道沿いにある鵜飼家】